卒業生からのメッセージ

教育
芦塚英子 さん


 H11回生の芦塚英子です。

 H11回というのが、どれくらい新しいか古いか、まずはそこから。

松蔭という名前の学校が産声を上げたのは、前の前の世紀の末、1892年の1月のこと、北野坂を登りきったあたりでした。一枚だけある写真をみると、避暑地の別荘といった趣の平屋の一軒建て、屋根には北野界隈にある洋館に今も見られる様式の大きな西洋風の煙突があります。正式の名前は、「松蔭女学校」、一代目松蔭です。英国からはるばる神戸にやってきて学校を創った女性宣教師は「佳き地に種はまかれました」とよろこんでいます。

 小さな学校は少しずつ大きくなって、1915年には、「松蔭高等女学校」となりました。第2代目の松蔭です。このころの松蔭は、中山手6丁目にありました。兵庫県庁の上の方です。当時の校長先生はミス・ヒューズとおっしゃいました。ヴァイオリンが上手で、文学にも造詣の深い、愛情深い先生だったそうです。この先生は、「オープン・ハート」という言葉を大切にしておられました。この言葉には、とても深い意味がこめられています。「開かれた窓」から気持ちのよい風が入ってくるように、「開かれた心」には、真実の神様の言葉が入ってくるのです。心を開く、ということはそれほど素晴らしいことですが、ある意味ではこわいことでもあります。なにが入ってくるか分りません、悪魔のささやきも・・・。ですから勇気をもって、真実を見る目を育て、そして許す心をもたなければなりません。ところで、ヒューズ先生の薫陶がみちていた当時の松蔭生は、胸に赤い、松蔭ミッション・スクールの意味を表すSMSの制服を着ていたでしょうか?ノーです。制服はまだありませんでした。

 ミス・ヒューズが英国に帰られ、浅野勇先生が日本人で初めての校長先生になられました。それが1921年。1923年には、創立当初からずっと松蔭を見守り育ててこられたフォス主教が退任されました。その後、1925年に、夏の制服ができました。今の夏の制服は袖が短くなっただけで、当時の制服とまったく同じです。学校の場所はまだ中山手でした。

 校舎が青谷に移転したのは1929年のクリスマスイヴでした。庭の松林が風にゆれ、バラ色の朝焼けのなかで感謝の祈りをささげたそうです。眼下には港をゆく船が見え、とってもハンサムなバジル主教をはじめ、たくさんの英国からきた宣教師の先生がいらっしゃいました。
 1941年12月8日、真珠湾攻撃。日本は戦争に突入しました。それ以前から宣教師の先生方は英国人、すなわち敵国人ということで迫害を受けるようになり、多くは英国に帰っていかれました。そのなかで、ミス・リーというえらい宣教師の先生は戦争中も日本に残られ、北野(山本通り)のご自宅に軟禁されるという苦しみを受けられました。

 1945年8月15日、日本は敗戦、戦争は終わりました。そのとき、私は4歳半でした。その年の春、六甲道にあった家を焼夷弾が直撃、母の腕にかつがれて火の海を逃げ、長崎県の田舎で避難生活を送って、原爆の光を見たりもしました。

 もしかすると、私が英語という言葉に興味を持つことになった原点のような記憶があります。1946年の正月明け、鏡餅に青かびがはえるころ、私の家族は迎えにきた父につれられて神戸に帰ることになりました。九州と本州をむすぶ地下通路で着ぶくれた長い人の列が汽車を待っていました。それぞれが米俵や野菜や餅や重い荷物をかついで都会に帰るのでした。暗い印象の人の列がざわめいてあっという間に人の列がどこかに消えました。アメリカ兵が通路の向こうから現れたのです。どれほど恐ろしいできごとであったことか。巷のうわさでは、アメリカ兵は女子供をつかまえて、両足を2頭の馬にくくりつけて、馬を走らせ、身体をやつざきにするなどとささやかれ、恐れられていたのです。戦争に負けた国の宿命だと信じられていたのです。私は恐ろしくて震えていました。そのとき、父がまっすぐアメリカ兵(MPとよんでいました)の方に歩み寄って、何か話をしました。すると、そのMPたちは手を振って、バイバイ、といったようによそにいってしましました。逃げ出していた人が戻ってきて、私はエプロンのなかの小さなおもちをにぎりしめてほっとしていました。もう5歳になるころの私は、強烈に、どのようなことがあっても、勇気をもって話し合うことがどれほど強い力を持っているか、ということをそのときはっきりと認識しておりました。

 閑話休題。敗戦を機に、日本はどんどん変わっていきました。学校の仕組みも変わりました。教育の機会均等、男女共学等など、さまざまな改革がなされました。それにともない、1948年に「松蔭高等学校」三代目松蔭が発足します。私が入学したのは1953年、終戦から8年が過ぎ、復興の槌音が高まっていました。日本中に信じられないほどのエネルギーが満ちていました。追いつけ追い越せという掛け声で復興が進み、かつての敵国語が盛んに勉強されました。英語が一番好きな教科だったというわけではないのですが、私は闇雲に英語が話せるようになりたい、と思う松蔭生でした。そのころは省線とよばれたJR灘駅から学校までの坂道を毎日英語で話しながら登りました。

 1958年、私はH11回生として松蔭を卒業しました。思い出せばいつも春の心の弾みを覚える楽しい日々でした。水泳部員でした。厳しい練習に泣いたことも、悔しかったことも、スランプに苦しんだこともありますが、それも青春でした。私は松蔭時代に2つの勲章をもらいました。1つめは、中学3年のとき、バタフライで中学校日本記録を作ったことです。完全なビギナーズラック、その夏にその記録はなくなってしまいましたが、頑張ったことはたしかです。もう1つは、ミス・リーにコーチをしていただいて、高校3年生のとき、神戸外大主催の英語弁論大会で1等賞。演題は「Why is your key.」でした。お祝いに、ミス・リーのお宅でお茶に招いていただきました。目の前が真っ白になるほど上ってしまったのですが、嬉しい経験でした。

 大学の英米文学科を卒業してすぐに、私は松蔭に戻ってきて、英語の教師になりました。そして5年後、心理学を勉強するために松蔭を離れました。人間の心に対する興味が抑えられなかったのです。敗戦の混乱を過ぎてきた自分の生い立ちのなかで、精神を病む人を周囲に見てきたことも一因だったように思います。

 それからおよそ20年を経て、もう一度松蔭の英語教師として戻ってきました。現場の教師として、時代が生み出す10代の不安に寄り添うように過ごしてきたように思います。そうしながら、50歳を過ぎた英語教師を優しくいたわってくれる生徒の皆さんと一緒に再び青春を楽しみました。思い起こせばミス・ヒューズが説かれた「オープン・ハート」の精神は、人を信じて疑わず優しい松蔭生のキャラクターとして、100年近い歳月を上級生から下級生へと受け継がれてきているのだと、と嬉しい思いでいっぱいでした。

 昨年春、定年を迎え、今私はまた心理学の世界にもどりました。イスラエルのルーヴェン・フォイヤーシュタインという心理学者と出会ったのです。「人間の可能性に限界はない」という人間への信頼に根ざし、障害児教育に大きな力を発揮してきたGreat Teacherです。もう84歳になられます。

 今、小さなダウン症の子供たちなど、知的な障害をもつ子供たちの能力開発、自立のための基礎作りのための教育の仕事をしています。障害をもつ子供たちの真摯さと、向上への意欲に励まされて日々を過ごしています。
http://www.hopedu.com というページをのぞいてください。今の私の活動を垣間見ていただけると思います。

 ながながとおしゃべりをしてしまいました。お許しください。

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